来世でお会いしましょう

 明日、あなたがこの世を去って100日になります。日本には百日忌があります。その次は一周忌、三回忌と続きますが、あなたが亡くなった日から私は命ある限り毎日あなたを思い続けています。

 あなたが天国へ逝って100日経つ間に私はこの世で100日生きました。天国にいるあなたはきっと星のように輝いているでしょうね。独りで生きる私は随分とやつれてしまいました。

 私はよく空を見上げて思います。どの星があなたでしょうか?あなたはどの雲間に隠れているのでしょうか?

 二度と掴めない手、二度と見つめ返すことのない瞳。この世と天国はどれほど離れているのでしょうか。天国にいるあなたが教えてくれませんか?10年?20年?30年?わたしが辿り着くまであなたは待っていてくれるでしょうか?

 この100日間あなたはどのように過ごしていたでしょうか。少なくとも透析をしなくても良いし、薬も飲まなくて良いし、導尿もしなくてよいですね。食べれない辛さも、歩けない悔しさ息苦しさも、意識を失うことも、けいれんで背中を丸めて苦しむことももうありませんね。もしあなたがまだ生きていたならば2度の手術と毎月3、4回の定期検査があなたを待っていたことでしょう。長年の透析で黒くやせ細ってしまったあなたの腕の血管から採血をすることはどれほど熟練の看護師さんでもとても難しかったですね。足の血管に針を刺されているあなたを見ると心がとても痛みました。亡くなる3か月前の心臓手術はあまり結果が良くなくて、ICUに10日間、合わせて2ヶ月入院しましたね。全身にたくさんの管をつながれ、人工呼吸器をつけて、そして足に点滴の針を刺したまま透析室へ移動するあなたを想像して、そこは生き地獄ではないかと思いました。このことを思い出すたびに心臓をナイフで貫かれる思いです。あなたがこの辛い出来事から解き放たれたことが唯一の救いでしょう。

 私の時間はあなたのいなくなったあの朝から止まったままです。あの朝まで特に変わった様子はなく普段通りのあなたでした。前日自分で起きてきましたね。他人に頼ることのないあなたは気力を使い果たしてしまっても自分のことは自分でする人でした。日中に寝巻を着る習慣のないあなた、たとえ1時間かかっても身なりを整えていましたね。その日も同じでした。起きて着替え、顔を洗い、髭もそり、髪を梳いて普段通り身支度を整えて食事をとりました。午後1時30分ホームページ作成を手伝ってくれる人が来ました。その人を玄関で出迎えて、どのような内容にするか話し合いました。あなたは眠くなってしまって眠ってしまいました。手伝ってくれる人が帰る頃になってもあなたは眠ったままでした。また水曜日に来るとわたしに言って帰っていきました。夜7時頃夕ご飯に呼びかけた時あなたは起きる力はあまりなかったです。私が支えながらベッドから車いすへ移動させることに失敗してしまい、あなたはそのまま床に倒れてしまいました。このように倒れ込んでしまうのは初めてではありませんでした。いくら踏ん張ってもあなたを起き上がらせることはできませんでした。救急車を呼ぶことも考えましたが、あなたを助け起こすためだけに救急車を呼ぶことに躊躇してしまいました。これまで何十回と呼んでしまっていたからでした。あなたは言葉もなくぐったりと横たわるだけでした。あなたの力がこれほどまでに弱って、命の灯が消え入りそうなことに、この時は気づけませんでした。

 どうしてもあなたの最期だとは思っても思えませんでした。あなたの体に力が入っていないのは今日は透析をしなかったからで、明日になれば元気になるだろうと信じていました。友人に電話で助けを求めて来てもらいましたが、彼女も異常は感じなかったようです。2人であなたを起こしてベッドに寝かせ、血圧を測りました。血圧は160近くありましたが、熱はなく、脱水ではないかと判断し、かかりつけの病院へ電話をかけました。

 その結果、発熱がなく明日透析予定だったので受診を断られました。30分後におう吐したので再度病院へ相談しましたが、また断られてしまいました。あと数時間我慢すればなんとかなるだろうと思いました。けれども死神があなたに目を付けているとは思いもしませんでした。2度も受診を断られて、私がどうすれば良いか迷っている間に時は過ぎていき、死神がゆっくりとあなたに近づいてきていたのでした。あなたが生きられる可能性はまだありました。もし私がもう少しあなたの様子に注意して、もう少し早く起きて、もう少し早くあなたを見に行っていたなら結果は違っていたでしょう。

 7時20頃あなたを見に行った時、あなたは毛布の角を少し持ち上げてあおむけで寝ていました。お父さん、と呼びかけても反応がありませんでした。体はとても暖かかったです。救急車を呼んで病院へ行き、1時間30分ほど心配蘇生措置が行われましたが、8時40分、死亡確認されました。

 天が崩れ地面が割れるような衝撃でした。私の愛する人がなぜ?これは現実ではない。絶対に違う。いや、これが現実か。私が愛するあなたを殺したも同然だ。私の生命に対する無知と不注意があなたを殺してしまった。もし前日に救急車を呼んでいたらあなたが死ぬことはなかったでしょう。もしわたしがあの日あなたの隣で眠っていたらあなたが死ぬことはなかったでしょう。もしわたしが朝早く起きていたならあなたが死ぬことはなかったでしょう。

 亡くなる前日の24時頃、あなたに水を飲ませてお互いにおやすみを言い合いましたね。しかしあなたは独りで逝ってしまった。あの夜あなたの身に何が起きたのでしょうか?私の名前を呼んだでしょうか?痛みはありましたか?苦しみはありましたか?回光返照はありましたか?なにか言いたいことはありませんでしたか?あなたがひとりで過ごした夜になにを思ったのでしょうか?寂しかったですか?怖かったですか?孤独でしたか?死神の気配を感じていたのでしょうか?そのときのあなたの気持ちは諦め?絶望?葛藤?それとも眠ったまま亡くなってしまったのでしょうか?

 その謎は2023年2月23日の朝に残されたままです。

 あなたが逝ったあの日の朝に私の心は取り残されたままです。

 あなたと共に過ごした25年の人生が映画のように私の頭の中で繰り返されています。

 私たちはお互いに惜しみなく愛を捧げあうと誓いました。そして光と影のように離れませんでした。私は物を欲しがる人ではありませんでしたが、あなたが私のために東京から長沙へ持ってきてくれたお土産は72個もありました。ネックレスや真珠、ブランド物の時計、かんざし、ブローチ、しおり…

 目についたものはなんでも買ってあげたい、東京まで買ってあげたいとあなたは言ってくれましたね。

 長沙で暮らした5年はあなたにとって最も幸せな5年間だったのではないかと思います。多くの友人に囲まれ、人々から尊敬され、大好きな翻訳に専念できていました。長沙にいる間に中長編小説を5冊も翻訳できました。商店街で様々な地から訪れた人々の方言を聞くことが好きでしたね。すべての方言を聞きとることが出来るようになれば本当の中国通だなあとよく話していましたね。あるとき、この商店街ではあらゆる地方の方言を聞くことが出来るけれど、日本語は一度も聞いたことがないと語ったあなたから異国の地で暮らす寂しさを私は強く感じました。

 5年後あなたの糖尿病が発覚したため、私と子どもを連れて東京へ帰ることにしました。東京は賑やかできらびやかな大都会でした。私はその中で孤独を感じ、まもなく適応障害を発症しました。話すことも、食べることも、眠ることも満足にできなくなりました。そこであなたは私たちを連れて盛岡へ帰ることを決めました。そこの田園風景は私の故郷とよく似ていましたが、私の病気が良くなることはなく、重いうつ病になりました。病状が悪化すれば中国へ帰って療養し、よくなれば日本へ来るということを6~7年の間繰り返しました。この間私は四季の移り変わりを感じることはありませんでした。喜びを感じることもなく、死んだように生きていました。私の母とした約束を破って日本に帰ったために私がこのように知らぬ土地で苦労することになったと、あなたは自分を責め続けていました。

 そんな中でも私の面倒を見てくれあなたは、元々うつ病と糖尿病を患っていたのに、さらにウイルス性皮膚病を発症してしました。皮膚の色が変わったり、剥がれ落ちたり、痒みが止まらなくなったりしていました。この皮膚病が完治する前に顔面神経麻痺にかかり、脳神経病院の外来に毎週3回通院することになり、2年以上通院していました。あなたは元々ただの風邪でも重症化してしまう人なのに私が精神的に調子を崩してしまったことがこのような不調につながってしまったのではないかと思いました。

 2人とも命を削られて、病魔に蝕まれる子羊のようでした。

 私たちの巡りあわせが悪いのだと考え、離婚することを提案しました。それから1年後、日本に来て8年目の冬に私たちは離婚することになりました。これは私の肉体と精神を引き裂く出来事でした。

 中国へ帰るためビザを取得し、航空券を買うタイミングで私の病が不思議と快方に向かい、睡眠薬で眠れるようになりました。

 私は喜びの涙を流し、まるで生まれ変わったようでした。食事は美味しく、冬の太陽は暖かく、地面の雪は冷たく、息子の笑顔が輝いて見えました。

 2年後息子の希望もあり、私たちは再婚しました。1度目の結婚ではしなかった披露宴を高級ホテルで親族を招いて行いました。

 2011年3月、日本そして世界に衝撃を与えた3.11東日本大震災が起こりました。岩手県はまさに災害の中心地でした。道路が崩れ、水道も電気も止まりました。スーパーには物資がなく、給油もままならない状況でした。その時あなたは、ラジオを聴きながら郵便局へ歩いていき、復興のために50万円を寄付しましたね。

 2011年5月あなたが倦怠感を感じて病院へ行くと、尿毒症の診断を受けました。腎臓の機能は15%しか残されていないとのことでした。

 運動制限や飲食が制限され、週に5~6回卓球をするあなたにとっては残酷な診断でした。残り15%の腎臓を守るため、運動の代わりにあなたは再び中国の児童文学を翻訳することに集中することにしました。2006年に翻訳し出版した750ページにもなる長編(乱世少年・国土館)を除く、他3作品の長編小説を何度も翻訳し直しました。さらに児童作家<孫幼軍>の童話短編を3つ翻訳しました。郑春華さんの<<魚になる木>>も翻訳しました。曹文軒さんの<<空を仰ぐ猫>>は翻訳途中でした。台湾の絵本を3冊出版しました。自作短歌集を出版しました。1200冊上の図書を東京都立図書館と他団体に寄贈しました。あなたが亡くなった後、全て翻訳し終わった中国と台湾の絵本は12冊見つかりました。また翻訳が完成寸前の絵本も8冊見つかりました。3年以上にわたり、「中国児童文学ホームページ」には5000冊以上の本を掲載しました。まだやりたいことはたくさんあったようでしたが、この時のあなたの体は30年前のものとは違い、弱くなり過ぎてしまっていました。

  あなたの頭からつま先までまるで全身が病魔の実験室であるかのようでした。病気に対抗する力もあまり残されておらず、まるで弱い羔羊1匹を1万の狼が睨み付けているような状況でした。あなたは蔑視しかできず羔羊になるしかありませんでした。

 明日あなたは新しい家に行きますね。生前にあなたが選んだ75年の人生で最後の家です。

 山々が連なり、緑で覆われた土地に小鳥が囀ります。300m右へ行くと競馬場があり、競馬場の向こうには国立森林公園があります。

 あなたは自然から生まれ自然へ還ります。

 生前あなたは何度も引越しをしましたね。故郷の盛岡から東京へ、中国へ行き上海から長沙へ、そして東京に戻り、その後ふるさとの盛岡へと帰ってきました。

 私たち家族と親族はあなたを見送ります。あなたに家の鍵を持たせますね。いつでも帰ってきてください。あなたの生前の努力の証である学位証書、各種資格の証書、主要著作も入れておきますね。最後に読んでいた本、最後に使っていたペンも、あなたがこの世界に生きていた証明:身分証、運転免許証、パスポート、図書カード、印鑑も持たせますね。あなたの両親はそちらの世界にいます。親戚、友人もそちらにいます。彼らの写真も持たせますね。お水も持たせますね。生前は飲水量も制限されていたのですから。

 あなたは孤独ではありません……私の心の中にあなたの存在が種をまき、根を張り、成長して、花を咲かせ、実を結びます。

 あなたは寒くありません……あなたは永遠に私の心臓の一番温かいところに在り、私の心臓のひとつひとつの鼓動があなたの生命の躍動でもあります。

 生まれ変わったのなら、あなたにはただただ健康に生きてほしいです。前世はあなたは病気ばかりで苦労し過ぎたでしたから。

 あなたは12月に生まれ2月にこの世を離れました。来世も12月に生まれてほしいです。春に向かっていく季節だから、あなたは喜びと幸福の化身となるでしょう。

 しかし、私の愛しいあなたに会うことはもう一生会うことできません。会えるとしたら夢の中です。会えるとしたら私もそちらの世界にいく日です。

 私の愛する人よ、安らかに眠ってください。今世にいただいたたくさんの恩は来世で倍以上にしてお返ししますね。

 石田稔さん、私の愛しい人。これでお別れです。来世でまた逢いましょう。

 2023年6月2日 石田 梅平

投稿者: ishidaminoru

岩手県盛岡市出身。早稲田大学大学院中国文学科修了。中学校の国語教員、マンション管理人をへて、1996年に上海華中大学で、1967年に湖南師範大学で学ぶ。長沙で結婚し、『乱世少年』を翻訳。2001年、帰国。2008年には、上海交通大学で、卓球の訓練を受ける。現在は、故郷、盛岡に帰り、透析、リハビリ、翻訳の日々を送る。

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