新中国の児童劇

日本でのアジアの児童文学の翻訳、研究は、欧米、日本児童文学の紹介、研究と比べてはるかに遅れている。大出版社は、世界児童文学全集などの企画の際に、アジアの児童文学には少しのスぺースしかない。そこで採られるものは、古典、民話(まっとうに言えば児童文学には入れられないものだが)を主にしており、アジアの児童文学の中では一番多いスペースを与えられる中国でさえその傾向を免れえない。欧米ものは、リンドグレーン、アーサー・ランサム、ケストナー、モンゴメリーのような個人全集に近いものまで出版されておりながら、アジアの創作児童文学は、各国選集さえ出されていない。このことは、アジアにはすぐれたものがまだ少ないということよりも、出版社と翻訳者の姿勢によっている。(注1)又、”欧米化”へと向ってきた日本社会で育った子供たちにとって、アジアのものは、なじみにくい、”あこがれ”の対象にはならない,ということにも大きな原因がある。この状態を変えていくには、アジアの児童文学の翻訳者、研究者の層の増大と努力と友に、教育者、父母の努力が必要であろうし、根本的には、日本の社会、文化の進路の再検討が、日本の隅々から更に強力に巻き起こってこなければならぬだろう。『日本児童文学』一九七一年八月号は”アジアと児童文学”という特集を組んでいる。これは、児童文学者内部からの、”現状”の再検討の芽ばえ(戦後になってからも、ずっと芽ばえのままなのだが)のあらわれである。私も、微力ながら”再検討”の具体化に協力していきたい。

[注1]参考までに。—「児童交学における中国と日本」という座談会で、斉藤秋男氏の「大人が最近三十年の現代史の爪跡を持っているがために、民族的な中国の作品が子どもへの贈り物にならずに終っている。それがほんとうだが、それで良いのかどうか」という質問に、倉石武四郎氏は次のように答えている。「一つの出版社などが資本をかけて出版すると言うことに鳴りますと、非常に危険な投資だと思うのです。ですからわれわれが翻訳する時にも、ついそれ避けるようになってしまう。こういうものを渡しては迷惑になりはしないかという気持がおこるわけですね。」(『世界児童文学』一九六〇年十二月号)

解放前の中国児童文学の研究は、中国児童文学の創造自体がまだ乏しかったこともあるが、日本ではほとんど行われていない。中国でも、当面の問題にまず重点をおいてとりくんでいるせいか、この方面の研究は進んでいないように思う。一九三五年頃から、国民党が「義務教育」「国民教育」を重視し、就学率はふえた。この時期に、教育の一環としての学校劇などに国民党なりに力を入れたのではないかと思われるが、どういう劇が行なわれたのか、資料がないのでわからない。
ここでは、解放後の中国の児童劇について、若干の資料に基づいて概括的に述べてみよう。

一九五三年十月の第二回中華全国文学芸術工作者大会で、張天翼は、『子供たちのために発言したい』と題する講演をしたが、彼はその中でこう指摘している。
 「子供たちのための作品は、現在、あることはあるが、まったく足リない。例えば映画は、今に到っても一本もない。劇の脚本は、これまでずっと淋しい限りであった。—現在では、青年芸術院少年児童劇団、中国福利会児童劇団のような、子供たちのために芝居をする劇団がすでに出きている。しかし、どの児童劇団も恒常的に上演できないでいる。脚本の不足のためである。」
 ここであげられた劇団は主要なものであり、この時期には、この他にも児童劇専門の劇団がいくつかあったと思われる。この両者はいずれも解放戦中に作られた。中国青年芸術劇院少年児童劇団は、東北文芸エ作団の第二団の児童団(後の少年先鋒隊)が前身になっている。中国青年芸術劇院少年児童劇団は、一九五六年に中国児童劇院となリ、中国福利会児童劇団は、一九五七年に上海児童芸術劇院となった。中国児童劇院は一九五六年に北京に劇場を立て、上海児童芸術劇院は、一九五八年に延安映画劇場を改築して劇場を設立した。これらの劇団は、 その土地の少年宮、実験劇場でも上演する。この両劇団の劇を全国の子供たちが見るわけにはいかないが、両劇 団の脚本は各地の児童演劇グルーブによって利用される。
 解放後、中国政府は初等教育に力を入れたので、学校劇も盛んになった。学校劇は、少年先鋒隊の演劇グループ、学校の演劇クラブ、クラスの自主活動によって担われている。そこでは、前述した児童劇団の脚本に基づく劇の他に、子供たち自身によって創作された劇も演じられる。人形劇、影絵芝居も、子供たちの手によって発表会が持たれている。この種の発表会は、頻繁に持たれており、夜に行なわれるものは「晚会」と呼ばれ、学校と生徒が共催で土曜日にひらくことが多い。「日本の同志の帰国歓送大会」や「兵士と烈士遺族を慰労する晚会」などでも、子供たちによる劇が演じられる。子供たちがいかに劇好きで、ポスター貼リなどの役割をも分担、協力してやっていくかは、張天翼の児童文学の短篇、『彼らと僕ら』(『他們和我們』一九五二年)に描かれている。子供たちが劇好きで、学校劇が普及しておリ、専門の児童劇団があることは、日本と同様である。日本との大きな違いは、劇をも含めた児童のための文化育成に国家が真正面から援助していることであり、(学校以外にも少年宮などの文化センターが各地にあることもその一 つの表れである)、少年先鋒隊〔注1〕、自治会、クラス内の班(「小組」)が、責任をもった自主性を発揮して文化活動を組織していることである。
 張天興が第二回大会で述べていたよう、解放後の数年間は、脚本の数は児童の要求を満たせるほど多くはなかった。当時は、児童向け映画、マンガ映画と同様に、ソ連、東欧の翻訳児童劇が盛んに上演されている〔注2〕。これには、外国のすぐれた作品を紹介するという他に、自国の創作児童劇の乏しさを補なうという意味もあったと思う。一九五五年九月の『人民日報』の「少年児童読物を、大量に創作し、出版し、発行しよう」という呼びかけに答えた児童文学創造運動の高まり、前述した児童劇専門の劇団と劇場の設立によって、児童劇の創造と普及は進歩を見せた。一九五六年には、第一回全国活劇〔注5〕コンクールが行なわれ、上演、演出、演技、舞台 設計にまでわたる審査が行われた。この頃には、演技指導のために、ソ連の演劇学校の校長や、舞台装置家が招かれている。
 この時期に、児童劇専門劇場で上演された作品は以下のようなものである。『同志たちは君といっしょだ』(ソ連の翻訳児童劇)、張天翼の『おおかみと三人姉妹』、『赤いネクタイと志願兵のおじさん』、『よい隊員になるには』、任徳耀の『友情』と『馬蘭花』(話劇として書かれたが、浙江省越劇団は越劇に書きかえて上演)、『利口なお嫁さん』、童話歌舞劇『海石花』、ピオニールの子供たち』、『冬に耐える花』『靴一つ』(『聊斎志異』の中の物語を川劇に書きかえて上演)。・・・
 一九五四年から六一年までの優秀な児童文学を集めた『児童文学選』が五冊、中国作家協会によって編集、出版されている。作品はジャンル別に配列されており、小説、詩、散文、ルポルタージュ、科学文芸作品、童話、革命斗争物語、童謡などと共に、脚本、民間演芸の項もある。老舎の戯曲は『試験田』(一九五八年?)『宝船』 (一九六一年)が採られている。『宝船』の筋を以下に簡単に述べよう。仙人を助けた少年が仙人から伸縮自在の宝船をさずかり、洪水でおぼれかかった動物たちを宝船に助けあげる。洪水のひいた後に、彼らは一緒に新しい共同生活を始めようとするが、裏切り者によって宝船が持ちさられ王様に売られてしまう。少年と動物たちが協力して宝船をうばいかえし、専横な王様を打ちたおす。民話を素材にした多募物の劇である。
 児童劇には話劇もあれば、歌劇もある。話劇が歌劇に改作されることもある。歌劇は伝統的な京劇などの様式に西洋音楽を取り入れているように思われる。喬羽の民話歌舞劇『果樹園の姉妹』(『果園姐妹』(一九五四年、中国保衛児童全国委員会主催の児童文学コンクールニ等。)は、歌詞に於て、三言、四言、七言などのリズムを生かしている。この劇の「唱」を作曲したのは劉 熾であり、独唱、三部合唱、伴奏、間奏など、変化に富んでいる。楽譜には「引子」、「過門」のような京劇の言葉も用いられている。馬少波の児童話劇『岳雲』(一九六四年)は、「幕后合唱」や挿入曲をとり入れている。
 張天翼の童話話劇には、『家での蓉生』(『蓉生在家裏』一九五三年)、『おおかみと三人姉妹』(『大灰狼』一九五三年)(前掲の児童文学コンクール一等)がある。『家での蓉生』は一場。蓉生という少年先鋒隊員がお母さんを学習会に誘おうとする。お母さんは蓉生が自分の衣類も後始末せず、赤ん坊の世話や家事も手伝ってくれないので学習会に行けないという。お母さんや姉さんとの話の中から、蓉生は、家の中では身勝手であったことを反省し、お母さんは学習会に行くことになる。短い劇であるが身近な問題を扱っているので、劇を見た子供たちの中には自分たちの日常生活を客観的に見ることができ、「蓉生と同じような自分の欠点をどう変えていけばいいのかという示唆を与えられた」という感想を記している子もいた。『おおかみと三人姉妹』は二場から成っており、『果樹園の姉妹』と同系統の民話を素材にしている。脚本で背景カットが非常に簡単に書かれているのは、子供たちが容易に演出しやすいことを意図しておリ、第二場だけを独立させて上演することも可能な構成になっている。『果樹園の姉妹』比べて時代色がなく、現代の中国の子供たちの生活を劇中の会話に反映させている。張天翼のこれらの作品は、珍らしさ、 ロマンチシズム、躍動感には欠けるが、子供の生活に直接与える影響が大きい。
〔注1〕文革以後は、少年先鋒隊員内部の造反によって生れた紅小兵がこれに変っている。
〔注2〕たとえば、ミハイルコフの『小さな白うさぎ』は、一九五三年中に百二十回上演されている。
〔注3〕中国本来の歌を主とする劇に対して、普通の対話と動作で演ずる劇のことを言う。

 劇は本来、見、聞くためのものであリ、脚本が劇として継承化された時、生命が生れる。脚本を読むだけではおもしろさが激減する。中国の児童劇について親しみをもって語るには、上演された劇を見なければならない。私にはまだその機会がない。日本で上演される映画や、中国から来日する劇団等を積極的にに見るにとどまらず、いつか中国の子供たちと一緒に劇を見たいものだ。

〔補足〕

 この原稿は今年の二月に書いた。材料としては内山書店から購入した数少ない中国児童文学書、張天翼の児童文学作品等のコピー、日本の雑誌に載った中国児童文学の紹介文を用いた。今夏になって中国児童文学書目録を作成するために方々の図書館、個人の蔵書を調査した結果、日本に於ても解放前、解放後にわたる中国の児童劇の脚本を数多く見ることができることがわかった。又、『生活全国総書目』(一九三五年)『全国総書目』『全国新書目』(一九四九〜一九六六年)等の中国で出された出版目録の少年児童読物の劇の項を見たことによって、 過去に無数の児童劇の脚本が出版されていたことがわかった。(例えば、一九五八年、一年間の単行本を網羅した全国総書目〔一九五八年〕の児童向げ創作劇の欄に挙げられたものだけでも、四十一冊ある。)故に、私が依拠した材料は、量的には九牛の一毛にすぎず、質的にも児童劇の代表作とは限らない。
実を言えば、私は当初、「中国児童文学書所在目録」をこの号に掲載しようと思っていたのだが、考えていたよりも多くの材料が集まり、新たな調査対象も加わったため、整理や分類上の問題点、所在目録以上のものを作成できる可能性、などが累積し、中国児童文学書目録の完成は来年にまで延期することにした。そこで急いで、代りの原稿を出さなければならなくなった。新中国の児童劇について幾分かでも伝達できればと願い、あえて不十分なこの旧稿を掲載することにした。

出典:『疾駆』創刊号 1972年10月
早稲田大学 現代中国文学研究会